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神社(その二) [コラム]

前節『神社』で御質問を頂いた。
 最後の二、三行がよく分らないとのコメントも頂いた。

 「人間の自我の稀薄化」であるが、これはよく見ると既に始っている。
 
 今日もメルボルンの世界水泳を見ていたのだが、得意な距離でないとはいえ北島康介君は5着に終り、自分でも“力んでしまった”と敗因を語っていた。北島に限らず日本の男子選手は全員力んで失速した。

 私は「爽快走法」を書いたが彼等は「爽快泳法」になっていなかった。根性で体を痛めつけて頑張る泳法であった。別の言葉で言えば“自我泳法”である。

 逆に日本の女子選手は平泳ぎの中村礼子のようにリラックスして泳いでいた。中村選手は泳ぐ度に自己ベストを更新していた。

 圧巻はマイケル・フェルプスであった。力みが全くない。爽快泳法そのものであった。

一緒に見ていたリンコマが“フェルプス選手は泳ぎながら体を解(ホグ)してしています”と口走った。まさに本質を射ている。

 動物は走りながら体を解しているのだ。

 女子自由型のフランスの女子選手マナドゥの動きも実に爽快そうであった。

 爽快走法にせよ泳法にせよ、自分の意志が体を運ぶのではなく、前方の空気が、水が、真空になって体を召びこんでくれるのだ。   

 もちろん人間の自我は総じていえばまだまだ熾(シ)然と燃えさかっている。だが、自我意志の人は成功できなくなったことを今大会は如実に示していたと思う。

 「神々の個の稀薄化」であるが、これは本文で述べたとおり、神社の神影が稀薄化していることを意味する。

 当然これはやがて、ヘブライの神ヤハウェもキリスト教の神もイスラムの神アッラーもその他諸々の神も、神が真実の神である限り、即ち偽神でない限り、その個としての名前を失ってくることを予告している。

 この変化に最も逆うのは各宗教の幹部たちであり、彼等は自分たちの特権――自我意志の塊――を保持しようとするだろう。

 だが素朴な信仰者の間では急速に神の個が稀薄化してくるであろう。
 
 他の民族は日本人ほど神を穴として体感するのは得意でないことは確かだが。
 
 
 それから神農君の、神社より自然がいいというのは一面観である。神社が真の価値をまさに表し始めているからである。

  もちろん山もいい、森もいい。
 しかしその山は人間の手が入った人工色の強い山であり、森は更に自然植生ではない。

 我々の周りの自然は「古代」を失ってしまっている。 
 
 唯一古代が残っているのが神社の境内である。
 
 まだまだ全ての神社に古代は復活していないとはいえ、人の余り来ない、しかも古格のある神社には非常に古寂びたいい社がある。

 先日行った霧島周辺にもそういう社があった。名は伏せておきたい。人が押寄せたら霧島神宮のようにガサガサした雰囲気になってしまう。

 御自分であちこち回って見つけて下さることをお奨めする。

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