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私の研究方法 [神文学のいろは]

本題に入る前に、私の研究手法について一言しておきたい。私は「旧約聖書」と記紀(キキ)(「古事記」「日本書紀」)を中心に取り上げて、その記事の中に隠された真実を説き明かしていく。私の論の極め手は全て私の直観である。直感ではなく直観である。直観とは、文献その他を論拠として結論を出すやり方ではなく、真理・真相をダイレクトに見透す智慧をいう。この直観智のことをチベットの大聖ジュアルカルは、純粋理性(pure reason)という言葉で表した。古代における大預言者たち、モーセ・キリスト・ゾロアスター・マホメットといった神人は皆、この純粋理性によって天地を貫く真理に貫入したのである。
 預言者たちだけではない、全ての独創的研究は、純粋理性という名の直観智によって為される。たとえばアインシュタインが、かの有名な法則E=mc2(E:エネルギー、m:質量、c:光速)※に思い至った時も、公式が直観的に閃いた。そこに至る過程にあっては論理的推究の連続であったにしても、最後のところでは論理的推究を超えて火花放電が起こる。この火花放電が直観である。論理学のヴィットゲンシュタインも「ある日山の頂上が見えた。その頂上に至る道は全く見えなかったが頂上が見えた」といった趣旨のことを述べている。頂上とは最終的結論である。その一瞬で直観した真理を論理化するのにヴィットゲンシュタインは十年かかっている。論理化とは頂上に至る道筋をつけることに他ならない。
 ニュートンのリンゴの話にしてもそうだ。リンゴが木から落ちるのを見てニュートンは万有引力を発見したという話は事実とは異なるということを先日、碩学の井上宗迪(ムネミチ)先生から教わったが、伝説の方がより真実を表している例は、枚挙に暇(イトマ)がないほど有る。ニュートンが万有引力の存在に気付いたのも直観である。独創的研究は、まず結論が直観的に見え、その後にその直観を証明する論理的積み重ねがあるのである。直観を天啓と言い換えることもできる。

 私は「神文学(シンモンガク)」という、一般的用語を用いれば形而上(ケイジジョウ)学に配されるであろう宇宙論をほぼ確立した。神文学とは、人間界に起こる事象は神が地に刻した紋、即ち象(カタチ)、であることを立証する学問である。換言すれば、天と地の間の関係を説明する学問である。
 神文学はヘーゲル哲学のような思弁哲学ではない。全て私の身の周りに起きた特異な現象の背景にある真実を解明していく過程の中で、それは少しずつ構築されていった。私がある特異な現象の真相を正しく解明せぬかぎり、その現象は絶対に終わらない。逆に正しい解答を出せばそれは終わる。だがその後、新たにまた特異現象が起こる。そしてまたそれを解明する。このような事を私は恐らく一万回を超す回数、延々と続けてきた。かつての預言者が霊視(ヴィジョン)を通して真実に到達したように、私は私の周辺に起こる特異現象を解明する中で宇宙と人間の真相に少しずつ肉迫していった。その特異現象とは、宇宙と人間の過去の業(カルマ)から立ち昇る波動現象である。世界と人間をかくも不条理なものにしている太古の原因から生じる波動である。

 きっかけになったのは一九八六年三月、四月に地球に大接近したハレー彗星の時からである。ハレー彗星は昔から悪魔星と恐れられてきた星で、たとえばカエサル暗殺の直前にもハレー彗星が夜空に箒状の妖しい光を引いたことが記されている。
 私の周りで特異現象が最初に起こったのは同じ年の六月三十日であり、この日妻緑姫(リョクヒ)が初めて異常な状態になった。以来十六年半ば(この文章を書いているのは二〇〇三年一月十六日である)私の周りには妻を中心に特異現象が続いてきた。特異現象といっても幽霊といった世に頻繁に見られるような現象ではなく、私の周りにだけ起こる特異な現象である。私はその度にその現象を解明していき、それを論文化してきた。数百を超す小論文の積み重ねがそのまま神文学を形成していったのである。一つ一つの特異現象を解明する中で、宇宙と人間の真相がまるで玉ねぎの薄皮を一枚一枚剥ぐように少しずつ分かってきた。
 かつて預言者たちは、神が人間に課す法を説いた。だが人間は、神の法の通りには全く生きなかった、生きられなかった。私が解明してきたのは神の法が人間を律することができなかったその主原因である。
 なぜ人間は神の法を守ることができなかったのか。神と人間の間に「偽党(ギトウ)」と「魔党(マトウ)」が介在したからである。この本では主としてそのうちの偽党の働きを見ていくであろう。
 私の神文学は宇宙哲学としての神文学本体(狭義の神文学)の他に、「Z占星学」、「Z占数(センスウ)学」、「Z神紋(シンモン)学」(図形の研究)、「Z言霊(コトダマ)学」、「Z方位学」、「Z神話学」といった学を含んでいる。この本で扱うのは「Z歴史学」の一部であるといってよい。Z歴史学はまだ完成には程遠い。狭義の「神文学」こそ私の理論体系の中枢であり、特異現象を解明する中で形成されてきたのはこの狭義の神文学である。他の分野は特異現象なしに純然たる純粋理性によって構築した。
神文学の根本的思想は宇宙の根源は「時間」である、とする思想である。これまで宗教が「神」としてきたもの、哲学が「絶対者」としてきたものを、私は「時間」として規定した。唯一神とは「時間の神」、あるいは「時霊(トキタマ)」である。時霊の名を「Z(ザイン)」という。(※編註:「ザイン」は、2006年5月16日「ザラズ」という奥の名を明かした。以降の記述は「ザイン」であった時の記述である。)Z(ザイン)とはヘブライ語のZ(ゼット)に当たる。私はヘブライ語には全く無知であるがZ(ザイン)には「剣」の意味があるという。この本の題名『戦争と平和の神』の戦争の部分をこの名は強調している。戦争とは狭義の戦争にとどまらず「戦い」を表している。あらゆる不自然なもの、歪んだものを戦いによって消滅させるのが時霊Z(ザイン)の意志である。
 ZYNE(ザイン)という名をなぜ時霊が用いているか、実のところその深い意味は分からない。ザインという言霊(コトタマ)に意味があるのであろうし、この名はヘブライ語とのみ関係を持つのではないのであろう。ZYNEをジョン・キングの『数秘術』に当てはめると72数(スウ)になる。72はZ占数学によれば「金環蝕」を意味する。金環蝕は月が太陽をその縁の所を残して隠す日蝕のことだが、中心の真ッ黒の部分を時霊が、周縁の発光部を光霊が代表し、光(世界)の背後に時間があることを暗示しているのかもしれない。
 しかしながらザイン(ZYNE)という名も時霊の仮名であろう。人間の喉では時霊の本当の名を発声することは不可能なのであろう。

 私がこの十六年余り行ってきた作業はZ(ザラズ)のエージェントとして、宇宙を隈なく冒し尽くしてきた“不自然”で歪んだ“波動”の正体を突き止め、それを焼滅させる作業であった。目に見えない、だが厳然として存在している宇宙の中の歪んだ存在──これを“波動”という──との戦いが私のこれまでの人生であった。この戦いは異常な戦いであり、ふつうの常識を以(モッ)てしては全く理解できないがゆえに、人からは妄想の一語で片付けられるであろう戦いであった。
 宇宙は、だから当然人間は、Zから発生したものではない不自然なもの──Zが体現するのは「自然の法則」である──の波動に原初以来ずっと巻き込まれてきた。人間の悲惨さ、人間の歪み、は基本的にこの歪んだ不自然な波動によって生まれた。
 神文学とは、このZ自身から発生したものではない、この不自然な歪んだ波動の複雑極まりなき伏魔殿の如き構造、を解明し説明する学問である。
 目に見えない世界の処理はほぼ終わった。これからZはいよいよ最後の仕上げにかかる。「Z世界秩序」の確立である。目に見えるこの地上にもZの敵がいる。その敵を全滅させる戦いがこれから始まろうとしている。その「戦い」の向こうに真の「平和」がある。

●アカシック・レコード
 インドで言われているものに「アカシック・レコード」なるものがある。宇宙のある相の中に印された過去記録のことである。アカシックはアカシャ(akasa※)なるサンスクリット語から出ていて、通常「現物質」と訳される。物質の元になっている、物質以前の物質であるとされる。
 「Z歴史学」とはアカシック・レコードを霊査することによって打ち出された史学である。
 現代文明でも映像の記録、音声の記録が存在する。これと同様、世界や人間の記録はアカシック・レコードとして存在している。

 世には自分の前世は誰々だったなどと軽々に、自慢気に語る者がいるが、まずほとんどが妄想である。自分で勝手に妄想を把む場合もあれば、自分の道具に仕立てる意図をもって悪霊が夢か何かで“お前は誰々だった”と囁くのを真に受ける場合もある。
 この世で最も悪(ニク)むべきは似而非(ニテヒ)なるもの、偽もの、である。私が“不自然”と言う時、それはほとんどかかる似而非なるものを言っている。偽ものは全て本ものに似ている。本もの以上に本ものに似ている。偽聖人・偽聖女は本当の聖人・聖女より聖人らしく見える、聖女らしく見える。彼等は己れの中の汚いものを隠して聖人・聖女を演じている。
 “隠して”と述べたが、彼等自身は隠していることを意識していない。無意識下にある自分の本性と意識にあるものとの間には不透膜がある。彼等は不透膜のこちら側にあるものを自分と思い込んでいる。不透膜の向こうにあるものを認識することはない。そして彼等は演じている以上、通常ボロを出さない。舞台で、ある役割(ペルソナ)を演じている役者はその仮面(ペルソナ)を脱ぎ棄てることはない。

 自分の前世は誰々だと主張する低級霊能者──これは似而非なる霊覚者ということである──の話からそれたが、アカシック・レコードに接近することは至難の業である。心に一点のウソもあれば、把むものは妄想である。更に、意識が時間を過去に逆上(サカノボ)れないと不可能である。時間を過去に逆上るにせよ、未来に抜け出るにせよ、時間の神に認められていない限り不可能である。
 そして、時間の神に完全に認められている存在はキリストだけである。即ち時霊自身とキリスト以外アカシック・レコードを紐解くことは事実上不可能であろう。キリストはキリスト自身が言うように「神の一人子(ヒトリゴ)」である。そしてキリストは、これまたキリストが述べているように神と半座を分け持つ存在である。

●引用について
 この著作において私が述べることは、ほとんどが私の直観脳からダイレクトに出てきたものであり、いかに偉大な文献であろうと研究であろうと、そこに書かれたものの延長線上においてものごとを考えたものではない。
 たしかに私は、若い頃は特にありと凡ゆる領域の本を古典中心に読み漁ったが、これらの知識は後に私に直観智が出てきた時のその直観のベースになったとはいえ、その延長線上で思考したことはほとんどない。私が捕んだ真実は、ほとんど全てが私の脳が火花放電的にダイレクトに捕んだ真実である。たとえば私の神文学は十九世紀末から二十世紀の最初の四半世紀にかけて興った神智学(Theosophy(テオソフィー))を基礎としているとはいえ、読み較べて下されば分かるように、ほとんど私の独創である。たとえば「絶対者」を「時間の神」として規定する思想は、神智学にはない。
 それと同様、私は若い時、日本とユダヤは同じ祖先を持っているという日猶同祖(ニチユドウソ)論の文献を読んだことはあるが、自分で検証できないものはあくまで仮説であり、仮説としてしか頭に入らない。それは本当かもしれないし、間違っているかもしれない。間違っているかもしれぬものを土台として思考することはできない。それが私の研究姿勢である。
 だから私が文献を引用する場合、その文献が私が捕んだ真実の傍証となるために引用するのである。引用するのは私の説が正しいことを傍証とはいえ証明したいがためではなく、諸兄諸姉がより納得して下さるように引用するのである。私自身にとっては、私が説くところは私自身正しいと確信している以上、他がそれを認めてくれようとくれまいと我(ワレ)関せずなのである。

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