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『大日本帝国滅亡に隠された秘密目的』第二節 [神文学のいろは]

第二節 歴史哲学序説

 この節からいよいよ大東亜戦争論に入っていくが、大東亜戦争で戦犯国家とされた日本は、その故にその前の日清・日露戦争まで侵略の汚名を被せられてしまった。まずその辺りから査(シラ)べていきたい。
 なお、侵略の汚名と書いたが、侵略が汚名を被せられるようになったのは恐らく二十世紀に入ってからで、それまで侵略は汚名というよりはむしろ美名であったことをまず言っておきたい。カエサルはガリアの侵略者であったし、ナポレオンはヨーロッパの侵略者であったが、彼等が与えられたのは英雄の美名である。腐った国、弱い国は他国から侵略を受けて当然なのである。それはヒビが入った器に外から圧がかかればピシッと割れるみたいなもので、自然現象に近い。腐り果てた国を温存しておく方がむしろ不自然であろう。腐り果てた実が廃棄されるように、腐り果てた国が廃棄されるのは、少なくとも世界全体を統べる時霊(トキタマ)から見れば当たり前なのである。だから、どこの国も他国から侵略を受けたくなければ、まず国を健全に保つことが必要であり、国民を強兵に仕立てあげることが必要なのである。世界を支配しているのは「戦争と平和の神」なのであり、単なる戦争の神でもなければ単なる平和の神でもない。
 現在(編註:2003年当時)、イラクに対してアメリカが武力で制圧し、北朝鮮に対してもアメリカは力による制圧を内心考えているが、独裁国家そのものが悪なのではなく、その国の内情が健全か否かによって国家の善悪は測られねばならない。独裁体制をとろうが、民主体制をとろうが、腐った国は内部から革命されねばならない。内部からそれができないのであれば、外からの侵略によってこれを達成しなければならない、というよりは外から侵略を受けても仕方がないのである。それが自然法則というものである。あくまで自然法則であり、侵略者の側に世界浄化の意図がなければ、それは自然法則の行使ではなくなる。侵略国家自体が腐敗の要素を多分に持っているといえよう。では誰が侵略の正当性、不当性を定めるのか。時霊Z(ザラズ)である。審判者はZだけである。
 では、国が腐敗しているか否かは、何を基準に判定するのか。権力者と国民の間に立つ管理者集団(代表が官僚)の中に義人が多いか少ないか、それともいないか、によって判定する。義(タダ)しい主張をする者が管理者集団のトップになれるかどうかである。義しい主張とは何か、ハートから奔(ホトバシ)る主張である。
 ハートから奔るとはどういうことか、と薄ら笑いを浮かべて嘲笑、苦笑する者は腐敗人である。義人であれば、私の言葉の意味が瞬時に腑(フ)に落ちる。腐敗とは偏(ヒトエ)にハートの腐敗なのである。ハートは聖所である。この聖所を誰も冒すことはできぬ。だから誰も当人以外、その腐敗を治すことはできないのである。だから、腐敗したハートの持ち主は、根こそぎつまみ出して火の中に投げ込むしかない。国全体を健全にしようとしたらそれしかない。腐敗したハートに人権など無い。その意味で人は生得的に人権を持っているとする、いわゆる民主主義的な見解を私は真っ向から否定する。人権とは元来神権であり、神から賦与された特権である。神は腐敗した人間を繁栄させるためにこの世を創ったのではない。
 健全な国家とは、義人が大臣・官僚に前(サキ)んでいる国のことである。自分たちの役割は国の統治者の意志を国民に形として伝えるチャンネルであることを骨の髄まで認識している大臣・官僚で固められて、国は初めて健全になる。チャンネルとは導路である。導路にコレステロールが詰まったら、それを強行手段で浄化する以外ない。

 この考え方は当然、次の疑問を呼ぶ。国の統治者自身が腐敗していたらどうなるのか。腐敗した独裁者の意志を国民に伝達するのが大臣・官僚の役割なら、余計国は腐敗するのではないのか、と。然(シカ)り。国家の統治者は神の導路であり、それ以外のものではない。だから、悪しき独裁者や利権政治家がトップにのさばる国家は、内側から革命する以外ない。それができないなら、他国から侵略されても仕方がないのである。侵略者の方がもっと悪い可能性は十分すぎるほどあるが。
 どこの国もどうしようもないほど腐敗していれば、神は全世界を火の坩堝(ルツボ)の中にぶち込む。大戦争の中にぶち込む。神の目的は天の秩序を地に布(シ)くことであり、歪んだ、不正な秩序はこれを滅ぼすため革命や戦争を惹起(ジャッキ)するのである。これは可能かと訊かれるならば、絶対的に可能だとお答えしよう。星のエネルギーの中で人間は生活している。そして星のエネルギーの中には、Z(ザラズ)に無条件に反応する種類のエネルギーが潜んでいるからである。
 従来の世界は正党(セイトウ)と偽党(ギトウ)と、それに加えて魔党(マトウ)の三者のエネルギーが絡み合い、人間は皆、その中に巻き込まれて良くもなったり悪くもなったり、廉直にもなったり狡猾にもなったりしてきた。だが真っ先に魔党は制圧され、その最後の一人が金正日であろう。偽党の抵抗と反撃は功名に癘(ハゲ)しく、それを制圧するのにはるかに時間がかかったが、偽帝・偽神は今やほぼ制圧された。地上にその秩序は残存するが、動力源を断たれた残党は日一日とその勢力を弱めていく。
 一方、正党は逆に日一日とその勢力を強くし、全世界が神の使徒たちによってコントロールされる日もそんなに遠くはない。だが地上の浄化作戦はこれから始まるのであり、戦いなしに世界秩序がもたらされることはない。

 義しい世界秩序を布く核国家は日本である。時間の神ZYNE(現ZARAZ)は“時間の最初から最後まで見通す”とされ、その長大な視界の中で世界をその目的のために導いていく。人と人、人種と人種、民族と民族、国と国、宗教と宗教、イデオロギーとイデオロギーの対立の中に、神の縦糸と横糸を編んでいく。縦糸を経といい、横糸を緯という。経は時間の流れ、緯は空間の拡がりと考えて頂ければよい。その土地土地(空間)の中で人間同志の間で起こる離合集散(リゴウシュウサン)の中に、神の意志としての縦糸を絡ませていくのである。
 新世界秩序は間違いなく日本から起こる。そのためにこそ、日清・日露の両戦争と、それに続く大東亜戦争があったのであり、そして、その仕上げの時代が今まさに開幕したのである。歴史の評価は未来ヴィジョンから見ての評価以外ありえない。過去の歴史を、現在の流行(ハヤリ)の思想から批判することはできないのである。

ホロスコープ鑑定

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『古代イスラエルと日本民族の秘密』はじめに [神文学のいろは]

いろいろな預言がある。最も有名な預言は、キリストの「神の国は近い」というものであろう。
 キリストの死後二千年の間に、キリストの預言は人間の眼にはもろくも崩れ去ったかに見える。この地上の一体どこに神の国があったか。キリストの教えを継いだキリスト教会自体が独善と偽善の大本山ではなかったのか。キリスト教会内でも古くから、正統を目指す諸宗派が他を互いに異端呼ばわりして迫害を加え合ってきた。その争いがカソリックとプロテスタントの血で血を洗う大惨禍に帰結したのではなかったのか。
 キリスト教会内だけの争いではない。キリスト教とユダヤ教、それにイスラム教は同じ神から出現しながら争い続け、それは今に至るまでパレスチナ問題として血を吹き上げている。
 宗教間の争いだけではない。国と国、民族と民族、人種と人種は今に至るまで憎しみ合い殺し合ってきた。どこに神の国などあるか、キリストの預言は預言ではなく単なる希望であったにすぎなかったのではないのか。人間は皆、そう考えている。
 だが人間(ジンカン)の百年は神の百日でしかないのを人間は知らない。キリスト以後二千年とは、神の眼にはただの二千日にすぎない。二千日とは、たかだか五年半ぐらいのものである。キリストの預言が間違ったと誰が主張することができるというのか。
 人界の一年は神界の一日であることを証す一つの傍証がある。占星(センセイ)学を知っている者なら誰でも知っている事実である。
 個人の運命はいつ、どこで生まれたかによって決定される出生天宮図(ホロスコープ)の範囲内でしか動かない。人間は自由であるから自分で自分の運命を決定することができると思っているのであれば、浅慮(アサハカ)と言う他ない。出生天宮図は、その者の運命のいわば遺伝子型である。
 人間はまず生まれ育った環境によって制約される。また人間は潜在意識によって制約される。人間は誕生する以前から生きている。自分自身の個別的前世記憶と遺伝子を通して流し込まれた先祖の記憶である。
 前世記憶など脳にそれがない以上存在しない、と速断してよいものか。自分には肉体以外の体はない、と断定できるのか。古来どの民族も神を崇(ウヤマ)ってきた。それと同時に、人間の中の魂あるいは精神(スピリット)というものを先天的に信じてきた。それを信じる機能は脳である。心の問題も全て脳の構造に帰着する。私は脳の他の意識主体はないと言っているのではない。最終的な意識主体が脳だと言っているにすぎない。
 その脳は、たしかに生まれて以来教えられたり学んできたりした体験や知識しか持っていない。生まれる前の自分のことなど全く知らない、というよりは生まれる前に自分など存在しなかったと考える。そういう意味で全く物質的といってもよい脳がなぜ魂を信じてきたのか、神を信じてきたのか。脳の本質が物質的であるとすれば、なぜその脳が物質的でないものを信じてきたのか。脳の本質からして、そういうものを信じることは脳の本質を裏切る、自分自身を裏切ることではないのか。なぜ脳は自分の本質を殺す意識を、人類の歴史始まって以来、延々と持ち続けてきたのか。
 人間が魂の存在も神の存在も信じなくなったのは、現代文明が発達してきてからではないのか。マルクス主義もイギリスに産業革命が起こってから一世紀後に起こった。古代に逆上(サカノボ)るほど人間は神を信じる程度が強かった。とすると、人類誕生は現在の科学的理論によると二百万年ぐらい前だそうだが、──これも甚だ疑わしい、私の少年時代では五十万年と教えられた──よしんばそれを正しいとして、人類はなぜ二百万年間も霊魂や神の存在を信じてきたのか。信じなくなったのはたかだか二百年ぐらいでしかない。期間にして一万分の一しか無神論時代はないではないか。
 そればかりでない。現代でも神を信じる者は無数にいる。イスラム教徒など全員信じているし、西欧でも恐らく数十パーセントの人は未だに信仰を持っている。
 おそらく世界中で最も信仰心のないのが支那人であろう。支那人はほとんど全員無神論者である(私は、現在漢民族と自称する人々のことを言っている。現在は中共政権に組み敷かれている他民族のことは支那人の中に含めていない。後世の滅茶滅茶な混血により、古代の漢人は今は残っていない)。似たようなのが北朝鮮か。その次に無神論者が多いのが恐らく我が日本であろう。日本人は信仰を持っている者を内心バカにしている。だが日本人の場合は、支那や北朝鮮の人々とは異なり本質的無神論者ではない。それが証拠に年初にはたいてい神社にお参りする。日本人の無信仰は、単なる“科学的”ジェスチャーであるにすぎない。

 脳の一部──松果腺を中心とした一帯──には前世記憶を再プリントされた脳細胞がある。どこから再プリントされるのか。存在の本質「霊(スピリット)」から再プリントされる。(霊とは光霊(ヒカリタマ)・射干霊(ヌバタマ)複合体をいう。この上位者に時霊(トキタマ)が存在するが、時霊は唯一神である。光霊とは正(セイ)の霊、射干霊は反(ハン)の霊である。…原註)
 この記憶は人によって天文学的な差がある。「霊」がどこまでその肉体を掌握しているかによって、記憶は確然たる記憶から靄(モヤ)みたいな記憶まで千差万別である。全く記憶を持たぬ者も大勢いる。

 人は生まれ育った環境と潜在記憶によって制約されている。自分はこうなりたいと考える時、その希望は潜在記憶から浮かび上がってきたものである。自由な発想で思い付いたとしてもその発想は潜在記憶から出てきたものにすぎない。
 一般的に言って、ホロスコープとは潜在記憶と今世における願望──この人生でどう生きたいか──が一つに編まれた運命の原盤であると言ってよい。もう少し正確に言うと、潜在記憶と絡まった願望を達成するうえでの、機会と障害が一つに編まれた運命の原盤である。人の一生はホロスコープに支配される。
 ただし私は世で行われている星占い程度のことを言っているのではない。私自身が創り出した「Z(ザラズ)占星学」のことを言っている。Z占星学に比べれば世で流布している占星学は小学生並みの精度でしかない。しかし、この場でZ占星学について説明することは紙数の関係上不可能である。私がキリストの預言絡みで言いたいのは人界の一年は神界の一日だということである。具体的にはどういうことか。
 生まれた時刻でつくられる天宮図(ホロスコープ)がある。一日経つとどの星も元の位置から動いている。一日後の星の位置が一年後の運命(行運(コウウン)という)を表す。三十日後の星の位置が三十年後の運命(行運)を表すのである。天宮図に刻(シル)された星の位置は、その人の全体としての運命、一生かけての運命、を表す。この運命を切り開くのに一日一年換算で進行する星の位置が関係するのである。一生で経験する全ての運命が出生天宮図に刻されているが、その運命のいろいろな相を行運としての星が開くのである。
 この事実は人間の運命が神界──星もその一つ──によってコントールされていることを示している。人は自分一人で運命を切り拓いているつもりでも、所詮お釈迦様の掌から逃れられぬ孫悟空なのである。

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私の研究方法 [神文学のいろは]

本題に入る前に、私の研究手法について一言しておきたい。私は「旧約聖書」と記紀(キキ)(「古事記」「日本書紀」)を中心に取り上げて、その記事の中に隠された真実を説き明かしていく。私の論の極め手は全て私の直観である。直感ではなく直観である。直観とは、文献その他を論拠として結論を出すやり方ではなく、真理・真相をダイレクトに見透す智慧をいう。この直観智のことをチベットの大聖ジュアルカルは、純粋理性(pure reason)という言葉で表した。古代における大預言者たち、モーセ・キリスト・ゾロアスター・マホメットといった神人は皆、この純粋理性によって天地を貫く真理に貫入したのである。
 預言者たちだけではない、全ての独創的研究は、純粋理性という名の直観智によって為される。たとえばアインシュタインが、かの有名な法則E=mc2(E:エネルギー、m:質量、c:光速)※に思い至った時も、公式が直観的に閃いた。そこに至る過程にあっては論理的推究の連続であったにしても、最後のところでは論理的推究を超えて火花放電が起こる。この火花放電が直観である。論理学のヴィットゲンシュタインも「ある日山の頂上が見えた。その頂上に至る道は全く見えなかったが頂上が見えた」といった趣旨のことを述べている。頂上とは最終的結論である。その一瞬で直観した真理を論理化するのにヴィットゲンシュタインは十年かかっている。論理化とは頂上に至る道筋をつけることに他ならない。
 ニュートンのリンゴの話にしてもそうだ。リンゴが木から落ちるのを見てニュートンは万有引力を発見したという話は事実とは異なるということを先日、碩学の井上宗迪(ムネミチ)先生から教わったが、伝説の方がより真実を表している例は、枚挙に暇(イトマ)がないほど有る。ニュートンが万有引力の存在に気付いたのも直観である。独創的研究は、まず結論が直観的に見え、その後にその直観を証明する論理的積み重ねがあるのである。直観を天啓と言い換えることもできる。

 私は「神文学(シンモンガク)」という、一般的用語を用いれば形而上(ケイジジョウ)学に配されるであろう宇宙論をほぼ確立した。神文学とは、人間界に起こる事象は神が地に刻した紋、即ち象(カタチ)、であることを立証する学問である。換言すれば、天と地の間の関係を説明する学問である。
 神文学はヘーゲル哲学のような思弁哲学ではない。全て私の身の周りに起きた特異な現象の背景にある真実を解明していく過程の中で、それは少しずつ構築されていった。私がある特異な現象の真相を正しく解明せぬかぎり、その現象は絶対に終わらない。逆に正しい解答を出せばそれは終わる。だがその後、新たにまた特異現象が起こる。そしてまたそれを解明する。このような事を私は恐らく一万回を超す回数、延々と続けてきた。かつての預言者が霊視(ヴィジョン)を通して真実に到達したように、私は私の周辺に起こる特異現象を解明する中で宇宙と人間の真相に少しずつ肉迫していった。その特異現象とは、宇宙と人間の過去の業(カルマ)から立ち昇る波動現象である。世界と人間をかくも不条理なものにしている太古の原因から生じる波動である。

 きっかけになったのは一九八六年三月、四月に地球に大接近したハレー彗星の時からである。ハレー彗星は昔から悪魔星と恐れられてきた星で、たとえばカエサル暗殺の直前にもハレー彗星が夜空に箒状の妖しい光を引いたことが記されている。
 私の周りで特異現象が最初に起こったのは同じ年の六月三十日であり、この日妻緑姫(リョクヒ)が初めて異常な状態になった。以来十六年半ば(この文章を書いているのは二〇〇三年一月十六日である)私の周りには妻を中心に特異現象が続いてきた。特異現象といっても幽霊といった世に頻繁に見られるような現象ではなく、私の周りにだけ起こる特異な現象である。私はその度にその現象を解明していき、それを論文化してきた。数百を超す小論文の積み重ねがそのまま神文学を形成していったのである。一つ一つの特異現象を解明する中で、宇宙と人間の真相がまるで玉ねぎの薄皮を一枚一枚剥ぐように少しずつ分かってきた。
 かつて預言者たちは、神が人間に課す法を説いた。だが人間は、神の法の通りには全く生きなかった、生きられなかった。私が解明してきたのは神の法が人間を律することができなかったその主原因である。
 なぜ人間は神の法を守ることができなかったのか。神と人間の間に「偽党(ギトウ)」と「魔党(マトウ)」が介在したからである。この本では主としてそのうちの偽党の働きを見ていくであろう。
 私の神文学は宇宙哲学としての神文学本体(狭義の神文学)の他に、「Z占星学」、「Z占数(センスウ)学」、「Z神紋(シンモン)学」(図形の研究)、「Z言霊(コトダマ)学」、「Z方位学」、「Z神話学」といった学を含んでいる。この本で扱うのは「Z歴史学」の一部であるといってよい。Z歴史学はまだ完成には程遠い。狭義の「神文学」こそ私の理論体系の中枢であり、特異現象を解明する中で形成されてきたのはこの狭義の神文学である。他の分野は特異現象なしに純然たる純粋理性によって構築した。

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